鶴ヶ丘高校 「音楽科・美術科」の擱筆
1968年に設置された芸術課程(美術科・音楽科)は19年間にわたり、多くの卒業生を輩出して1985年に募集停止になりました。美術科の元教諭である福田篤先生が「日本大学鶴ヶ丘高等学校五⼗周年史稿 飛翔」に執筆された「美術科の検証と反省」を掲載します。福田先生には今回の掲載をご快諾いただきました。誌面を借りて心より御礼申し上げます。
美術科の検証と反省
元美術科教諭 福田篤
鶴ヶ丘高校の美術科が閉鎖されるのを機に私は退職した。それは十九年間行ってきた造形教育を私の内に冷凍保存するためであり、限られた期間の限られた生徒達との造形活動をより純粋な結晶とし、彼等のその後の活躍を、ドイツのバウハウスの芸術活動のその後と重ね合わせての退職であった。私は終わりを見たのでなく、そこに出発を見ようとしたのである。
私はこうした気持ちがあったので鶴高時代を思い返すことは一度として無かった。冷凍庫には重い蓋があったのである。多くの卒業生が今専門の世界或いは社会で活躍している。それで我々の造形教育の正当性が証明されたとは思っていない。それは彼等の活動に対する社会の評価であり、我々は教員として又評価を受けねばならない。鶴高の造形教育の検証が行われないままになっているのである。
美術科は芸術学部との七年一貫教育であった。今教育界で問題となっている受験の為の能力と創造性、独創性の育成と云う教育本来の課題があるが、大きなメリットと同時にマイナスも合わせ持った七年一貫であった。近代デザイン、建築、美術の元となったドイツのバウハウスの日本の権威山脇巌先生の理論による造形基礎教育論を参考にしてカリキュラムが編成された。
昭和四十八(一九七三)年に出勤途中で交通事故で亡くなった外川智彦教諭が山脇理論の継承者であったことが大きな力となったと思われる。
一貫教育は七年間で完成する教育であるが、大学にとっては質の良い学生が安定して入学すれば良いという認識であったので大学側の基礎実技に手を加えられることは無かった。その為、鶴高の卒業生は二回同じ様な基礎教育を受けねばならなかったのである。
今思い出しても草創期は毎日が充実していた。実習室は地下室、屋上のプレハブと短い間に引っ越しを繰り返していたが、生徒も教員も不思議と不満を感じなかった。
屋上での実習は例えようのない楽しみもあった。春の爽やかな風、晩秋からの夕焼けは淡い悲しみを伴って、生命の存在を感じさせてくれるのであった。あの様な学校に子どもを入学させたいという声を卒業生からよく聞く。その度に教育機関として十分では無かったという反省の方が先に立つのだ。かけがえのない青春時代を過ごしたことが人にとってかけがえのないことなのであろう。鶴ヶ丘で学ぶ生徒が二十一世紀の創造的リーダーとして活躍してくれることを期待している。
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この掲載のご快諾をいただきました先生の手紙にには「造形芸術の世界、まんが家、美術教育等で活躍している卒業生は数えきれない程多い」ことと「例外的な例も少なくなく」芸術課程の同窓生が社会で活躍されていることが記されていました。
当時の校舎全景、左側には野村證券の社員寮がありました。
引用文は原文のまま掲載しています。
( 続く )